おでんのたまごさんの3周年記念フリー小説(クラアン)です!
Sunny-side up  〜夫婦喧嘩は、まずしい犬も食わない?〜

 

|| 序 幕 ||

  愛は永遠ではない。どれほど深く愛し合おうが、その愛の訪れと同様、終焉もまた唐突にやってくる。皆に祝福され、神の前で永久の愛を誓おうとも、たとえ愛の証たる子を授かろうとも、其は、誰の上にも等しく訪れ、強く結び合った絆はいともたやすく解れゆく。
 愛が消えゆく時とは、実にあっけなくやってくるものだ。
 付き合い始めたばかりの恋人達や新婚カップル、子育てから解放された熟年夫妻、ともに白髪となった老夫婦であろうが関係ない。
 積み重ねた二人の愛の年輪が、永遠を約束するものではない。
 愛の終焉を告げる使者は分け隔てなく、ほとんど気紛れに、世界中すべての恋人達と夫妻の元へと来臨するからだ。
 終わりを導く使者、それに名をつけるとするならばただ一つ、「運命」であったろう。 ここにもまた――「運命」の名に於いて、愛の終焉を迎えようとしている夫婦がいた。
「信じられないわ…!」
 叩いたテーブルの勢いを駆って立ち上がりざま、彼女は怒りもあらわにそう吐き捨てた。あまりにも激しくテーブルを叩きつけたものだから、朝食の席に並んだクラムチャウダーは大津波を起こして、テーブルクロスの上に多くの波濤を散乱させてしまったほどだ。彼女はしかし、洗い立てのテーブルクロスが受けたそんな被害など、微塵も眼に映しとってはいなかった。
 彼女の視線の矛先はただ一点、対岸の席に座る夫の頭上にあった。怒りが向かう先も同じだ。
 夫へと注がれる眼差しも顔つきも、これから一緒に仲良く朝食を食べようとするものではない。可愛らしいそのおもては不快感で引き歪み、暁の空を連想させる瞳はいまや、真っ赤に滾る灼熱の太陽を抱いている。侮蔑の色さえ、それらのなかには混ざっていたものだ。
「ありえない」
 怒りに口を囃したてられるまま、彼女はなおも強く夫を詰った。
「絶対にありえないわ。なんだってこんなことをするの?こんなこと、普通はしないでしょう?常識だわ」
 日々、愛の睦言を囁いていた唇から紡がれるのは嫌悪に歪んだ声音ばかり、伴侶たる夫を見下ろす双眸はまるで、腐った生ゴミと対峙しているかのようであった。
  声も荒げて非難しているというのに、その夫はといえば、泰然と腰掛けているだけだ。妻が立腹し、諍いが起こっているなど我が身には一切関係ないという姿勢を示して、下ろした眼瞼もどっしりと構えている。鷹の羽と同様の彩り持つ長い前髪が、我関せずと言っているかのように、瞑目する彼のおもてを覆っている。
 こんな態度を面と向かって取られたら、怒気が膨れ、苛立ちが募らないはずがない。
「そう。私の言葉なんて、あなたにはもうこれっぽっちも届かないのね」
 彼女がそっぽを向き、苛立ちの吐息を零したのも無理からぬことだったろう。
「あなたがそんな人だったなんて……見損なったわ」
「その言葉、そっくりそのまま返させて貰おう」
 きくり、彼女の心臓が軋んだ音を立てたのは、今まで傍観を装っていた夫が口を開いたせいではなかった。発せられた言葉のみならず、声音の隅々までも完全に冷えきっていたからだ。
 吐息すらも白く見えんばかりのその発言に、負けじと対峙した彼女である。言葉の真意を尋ねるのも無論、忘れなかった。
「どういう意味?」
「意味とは?」
 ゆっくりと席を立ちながら、夫が冷たい弁を返してくる。閉ざされていた瞼を開け放った瞳は、猛禽の王がごとき鋭さを持って、彼女に注がれてきたものだ。
「まったく言葉通りだが?」
 頭二つ分は離れた身長差のおかげで、圧倒的な威圧感すら覚えた彼女ではあった。が、夫の真意に気付いた以上、負けてなどいられなかった。怯んだ腰を懸命に隠し、虚勢を張って果敢にも挑みかかる。
「なあに?」
 上ずろうとする声を、必死に捻じ伏せる。
「私の方が間違っているとでも言いたいの?」
「無事に通じていたようだ」
「……! 間違ってるのはあなたよ!」
 あくまでも淡々と語ってくる夫をキッと睨みつけると、彼女はサッと薙いだ右腕でテーブルに載っている一つの皿を指し示した。そうして大声で、きっぱりと言い切ったのである。
「目玉焼きには絶対醤油でしょう!」
「何をふざけたことを言っている。ソースが常識だ!」
 大音声で夫が反論してくる。
 怒りに滾った双眸をお互い、これでもかとばかりに叩き付け合う。一筋も逸れることなく、一直線に瞳を見交わしあうその姿は、一秒だって離れるのが嫌な熱愛夫婦のそれのようである。とはいえ、彼ら夫妻の瞳の根底にはもはや、愛情の欠片さえ見当たらなかったのだが。あるのは相手への怒り、非常識な考えを持つ者への嫌悪感だけだった。
  彼女は一歩も退かなかった。夫もそうだった。
  そうやってどれくらいの時を、睨みあって過ごした頃だったろう。
「――話は平行線のようだな」
 嘆息まじりにそう呟き、膠着状態を打破したのは夫の方だった。彼女はなかば冷め切った表情で「ええ、そうね」と頷き、身を、居間の扉へと向けたものだ。
「どこへ行くのだ?」
 夫が、興味のなさそうな声で尋ねてくる。彼女の方も振り返る手間を省き、素っ気なく言い返した。
「出て行くわ。目玉焼きにソースだなんて……!私、あなたの思考には付いていけそうにないから。今日をもって別れましょう」
「勝手にするがいい」
「ええ、そうするわ」
 最後まで夫を見返すつもりはなかったが、居間から出て行く間際、彼女は誇らしげな笑みを手土産に、こう宣言したのであった。
「あの子は私が引き取って、立派に育てるから」
 その意図に気付いた彼が、慌てて追いすがろうとしてきたが甘い。
「待て…! あの子は私が」
「さようなら」
 別れの言葉を言い放つやいなや、無情にもぴしゃりと扉を閉めた彼女であった。居間を出るなり、その足元に擦り寄ってきた一匹のチワワをそっと抱き上げる。
「さあ、ペペちゃん。ママと一緒に、このおうちを出ましょうね」
愛しい、愛息子とも呼べるチワワを抱いて玄関へ向かった彼女を見送ったのは、テーブルを打ち据える大きな音と食器が暴れる音、そして、「くそ…!」と叫ぶ夫の罵声。彼女はしかし、一度も振り返ることなく家を出ていったのだった。
 居間に一人残された夫は、頭を抱え込んで椅子にへたりこんでしまっていた。
「目玉焼きを今朝、彼女が作らなければこんなことにはならなかったのに…」
 恨めしげに目玉焼きを睨み据え、ぶつぶつと悔恨の情を漏らす彼のうわ言を聞いているのは、冷えきった朝食達だけである。
起こってしまったことを悔いてみても、時はけっして戻らない。それでも彼は悔やまざるを得なかった。
「彼女のこと、本当に愛していたのに…くそ! エウル、君はなぜ目玉焼きに醤油なんだ」
 苦悶する彼を照らしていたスポットライトは徐々に細くなり、ついにはその姿は完全に、闇に呑まれて消えていったのだった。

|| 第一幕 ||

「いやー、俺さま、手に汗ダラっダラ!涙ちょちょぎれ!いやいや本当、一時はどうなるかって思ったが」
 ぞろぞろと、イセリア村公民館から吐き出されていく人の波に流されながら、べらべらと喋りはじめたのはゼロスだ。話題はもちろん、つい今しがた観終えた劇のこと、話しの水を注ぐ先は、連れ立って歩くロイドである。
村はずれのアウリオン家に足を向かわせがてら、ゼロスは締まりのない笑顔も絶好調に、のべつまくなしに舌を揮ったものだ。
「まさかあの可愛いペペ公が筋肉ムキッムキに成長した挙句、別れた夫婦の仲を取り持って復縁させるたあ、喧嘩別れしたシーンからは全然予想もつかなかったぜ。涙ぐましい努力ってやつ?日夜人知れずスクワット、腹筋、巨木を相手にフンッ!フンッ!っと両前足を打ち込むペペ公のあのシーン。飼い主達のことを思ってそうしてたって知った時は本当、俺さま、さぶいぼたったっていうの。五年間ずっとってのがまた、泣かせるよなー。はじめ、ロイドくんから劇のタイトル聞いた時は正直、なんじゃそら!って思ったんだが、いやー、タイトルに嘘はなかったな。これぞ完璧、ツーといえばカーってやつだ。『走れペペ公。愛の目玉焼き〜愛と奇跡と雪山に続くソースの跡〜』!かー!いいねいいね。こりゃあ国際アオデミー賞ものの、木彫りの金の熊賞ものの名タイトルじゃねえか。いや、いいタイトルだあ。うんうん」
 二時間ばかり沈黙を守っていた唇はエンジンフル回転、怒涛の勢いで感想をまくしたてる。他人が相槌を入れる隙間など、一ミクロンだってありはしなかった。立て板に水を流すとはまさしく、このことだった。
  隣の客と肩が触れあうほどのせせこましい観客席から、晴れ渡った青空の下に解放された気分が活力を与えたにせよ、矢継ぎ早に言葉が生まれて来る源は99.9パーセント、持って生まれた才能に違いない。
  かたやロイドは沈黙を守って、右隣から垂れ流されてくる言葉の濁流に応対していた。連れの話を黙って受け止め、聞くに徹している――というわけではない。まったく耳に入っていないのが実情だった。
  ロイドはいま、それどころではなかった。なぜなら頭の中を占拠している、とある疑問と取っ組み合っていたからだ。
  われんばかりの拍手で劇の幕が降りてからこっち、いや、元を辿ればもっと前、あるシーンを見て以来になる。それ以来ずっと、その「あること」が引っかかって引っかかってしょうがなかった。気もそぞろになった。待ちかねていたせっかくの劇は、おかげで素直に楽しめなかったし、物語にも入り込めなかった。劇に出演したコレットの晴れ姿すらも、残念なことにぼんやりと霞んでしまったほどなのだ。
 終始こんな調子であったから、ゼロスが話す声は認識できても、具体的にどんな話題を振られているのかまでは、ロイドにはわからなかった。いつ会場を出たのかさえ知らないのが、いまの彼の現状である。
  そんなロイドをよそに、一人ご満悦顔のゼロスの口は容赦がなかった。『喋ると三枚目』という不名誉な称号の本領発揮とばかり、
「あのシーンもよかったよなあ」
  数歩先の地面をじっと注視したまま、真剣な面差しで歩を進めるロイドとは対照的に、明るく弾んだいつもの調子で話を続けたものである。
「元旦那の危機を察知して、雪山を、ソース咥えて仁王立ちで走るぺぺ!寒風吹きすさぶ真冬だぜ、真冬。これ以上の忠犬ぶりはねえだろ?まさに主人を慕う、愛ってやつ?俺さま、愛には弱いんだよなー。ま。一番胸をキュンって打たれたのは、白衣のナースならぬ獣医のコレットちゃんなわけだが。いやー、本当絶品、めちゃくちゃ可愛かったよな〜コレットちゃんv」
  見目形麗しいかんばせが、三枚目どころか五枚目までも下落しようが気にかけない。一瞬たりとも止まらない口の動きはすこぶる快調に、時に手振りまでもつけてひたすら喋る。目なんかすっかり、ハート型だ。
「あんな可愛らしい癒しの天使に付きっきりで看病されるなら、俺さまいつだって、喜んでコレットちゃんのためだけの忠犬になるぜ。コレットちゃんが「取ってこ〜い」ってフリスビー投げたら俺さま、イセリアだろうがメルトキオだろうがデリスカーラーンだろうが禁書の中だろうが、デモンズシールを15個つけていようがどこへだって取りに走っちゃうvあーもちろん、劇もよかったわけだが。最高にスリリングで摩訶不思議なアドベンチャー、感動的ないい話だったぜ。ペペ公の、主人達を思うけなげな心、アーンド、癒しの獣医コレットちゃんの白衣姿!この二つが揃った今作こそ、イセリア村、いや、世界が四千年後まで残したい名作劇だと、俺さまは自信満々にいえるわけよ。これぞ名作だ。なあ、ロイドくんよ?お前もそう思うだろ」
 長々と音読で綴った感想の締めくくりには、バシッと一発、ロイドの背中をはたいてきた彼である。同意を求めたそれは友愛も篭めて、遠慮のない力で炸裂したものだ。
 効き目は抜群だった。背中を叩かれた刹那、二段ベッドから突き落とされるようにようやく、物思いの淵から浮上できたロイドであった。普段なら眉を逆立てついでに、「痛いな、ゼロス。加減しろよ!」と、抗議の声をあげるこれが、今のロイドにとってはほどよい目覚まし時計となったのである。
「あ。悪ぃ」
 ほぼ反射的に、謝りの言葉が口唇を突いて出たのと、ゼロスの顔がひょいっと横手から出現したのは同時だった。やにさがった笑みを引っさげて登場した彼は開口一番、ロイドにこう言ってきたものだ。
「なんだよ、ロイドくぅん?しけた面をますます湿気させて」
 そう指摘されて初めて、己の顔の状態を知ったロイドである。心配させてはいけないと、頬を笑みに託したのはほとんど本能だった。
「え?俺、そんな顔してたか?」
「してた、してた。炊き立てご飯のおともに食べた海苔が、『げ?これ半年前に消費期限きれてんじゃん?!』ってくらいにしっけてたぜ」
 うんうんと大きく頷きがてら、ゼロスがきっぱりと肯定してくる。その足は止まっていたけれども、突然の急停車に、文句を言う後続者は誰一人としていなかった。
  ゼロスに引き連れられるまま、気がつけば、随分な距離を踏破していたらしい。人の波はすでに跡形もなく、自分達以外の人影はどこにも見当たらなかった。人の群れに代わって周囲に見えるのは、昼下がりの陽射しと猫一匹いない路地、それから路地に充満する美味しそうな焼き菓子の匂いくらいだ。ふわふわと、目に見えぬ綿菓子のように漂うこの匂いの発生源は十中八九、我が家の台所だろう。自宅の赤い屋根がもう本当に、目と鼻の先に見える。
「そんな湿気まくりの顔。はっきりいってロイドくんには似合わないぜ?」
 寄せ合った柳眉も不満たらたらに、ゼロスはなおも駄目だししてきた。
「ロイドくんにはもっとこうバカみたいに明るく、いつものように能天気な顔しといて貰わないと。こっちの気分まで沈んじまうだろ?」
「あ――うん」
 その意見は確かに尤もだ。素直に首を振り下ろしたロイドだったけれど、なぜだかひどく、釈然としない気持ちにもなったものである。 バカにされたんじゃないか?と、ふとそう思ったものの、それを相手に追求する暇はなかった。「で?」と、ゼロスが説明を促してきたからだ。
「なんだってお前さんはそんな、雨降り前の猫の毛みたいに湿気ちまってたんだ?」
 両腰に置いた手も偉そうに、相も変らずふんぞり返ってこちらを見下ろしてくる。高みより注がれてくるその顔にはしかし、さきほどまでの不満や笑いの跡は欠片もない。なんだかんだと軽口を叩いていたけれど、彼なりに心配してくれていたのだ。
  そんなゼロスへ向け、ロイドが感謝のこうべを垂れ込めたのは言うまでもなかったろう。
「心配かけちまってごめん。実は、さっきの劇のことなんだけどさ。気になることがあって」
「気になることぉ?」
 事情を告げるとゼロスは、首を傾いできたものだ。が、すぐさま彼は、にやにや笑いを目元に侍らせて言葉を紡いできたのだった。
「はは〜ん。さてはロイドくん。白衣の獣医姿のコレットちゃんがあまりにも可愛すぎて胸が、きゅううぅぅぅぅんって、なっちゃったってか?わかるわかる。あのコレットちゃんははっきりいって反則なくらい、べらぼうに可愛かったもんなあ」
「何言ってんだよ、ゼロス」
 ロイドは、不審な者を見るような目つきで彼を見やった。ゼロスが何を言っているのかが、本気でわからなかった。
「コレットが可愛いのは、いつものことだろ?」
「わー…無意識に惚気やがったな、この野郎」
 真実を申し立てた途端、ぼそり、ゼロスが口早に呟いたが、それはあまりに早すぎた。声音が低空をかすめたのも手伝って、ロイドは一言も拾い取れなかった。
「何て言ったんだ?ゼロス」
「ん〜?あー…。お前の言う通りだったなって、言ったんだよ」
 耳の穴に小指を突っ込みつつ、ふいっとゼロスがそっぽを向く。あからさまに興味を失ったという風体だったが、だからといって完全に失ったわけではかったようだ。顔は横を向けたまま、耳から取り出した指先をフーフーと息で吹きかけながら、理由を尋ねてくる。
「じゃあ、ロイドくんは。いっつも可愛らしいって日々常々思ってるコレットちゃん以外の、何が気になってたんだ?」
「ああ。俺が気になってたのはさ」
  俄然とロイドは、その問いに乗り込んだ。
「世間の一般常識から考えてさ。夫婦喧嘩って普通は、しないもんだろ?夫婦喧嘩は、ほら、まずしい犬も食わないって言うし。なのになんだってあの二人は――って、なんだよ?ゼロス」
 眉が、不満のラインを象る。目は半眼となり、声にだって苛立ちが篭もった。
 こちらが真剣に話しているというのに、だ。だというのに、ゼロスはなんと鼻先で「フ」と笑ったのである。それは明らかな嘲笑であり、人を小ばかにした態度そのものだった。
  問い詰める口調はおのずと、きつくなったものだ。
「俺、なんかおかしなこと言ったか?」
「……あのなあ、ロイドくん。その妙な一般常識が、どっから出てるのかは知らないが」
  語気を荒げて問い質してみても、ゼロスは呆れ顔をおおっぴろげに広げてこう言ってくるばかりだった。
「夫婦喧嘩なんてそう、珍しくないもんだぜ?ていうか、喧嘩するのが世の常・人の常・夫婦の常。小さな喧嘩から大きな喧嘩までコツコツ経験して、愛をより一層、ズズズいっと深めていくのが夫婦ってもんなんだよ。そもそもロイドくんの言った諺の『夫婦喧嘩は、まずしい犬も食わない』ってのも、修羅場を繰り広げる大喧嘩のさなかにさえ漂う、なんつーかこうまったりとした甘美な愛を感じ取った野良犬が、「かー!こんな甘ったるいの食えるわけねーだろ!ぺっぺっ!」ってそっぽをむくってところから来てるんだからな」
「へえ。そういうところからきたのか、その諺って」
 思わず感心の息をついてしまったロイドである。諺の由来を知らなかったからだが、『夫婦喧嘩は犬も食わない』が正しいものである事実については、初めに持ち出したロイドはもちろんのこと、せつせつと語ってみせたゼロスもまた、最後まで気付きはしなかった。「そうそう。由来はそうなんだよ」と頷く仕種も自信たっぷりに、彼は最後にこう述べて話を締め括ってきたものである。
「まあ、俺さまの博識な知識披露は横に置いといてだな。喧嘩あってこそ、夫婦の仲は一段とよくなるってもんさ。だいたい、喧嘩するのも仲がいい証拠。友達同士とかでもあるだろ?親友同士、殴りあいの喧嘩をしたあと友情が深まって、肩組んで笑いあって最後に、腰に手を当てて夕陽に向かって牛乳を飲むってシーンがさ。あれと同じだよ。男と女が愛情を深めるのにも、喧嘩は必要なんだ」
 なるほど、ゼロスの理屈も一理ある。言われてみればそうかもしれないと、ロイド自身も思ったのだが。
「……確かにそうだけどさ」
 それでも言葉尻が濁り、声音が重くなってしまったのは他でもない。あの劇のせいだ。劇で見たある場面のせいで、ゼロスの言葉が喉に突っかかってすんなりと飲み込めなかったのである。その場面での疑問が解決しない限り、永遠に飲み込むことは不可能だった。
  この議題に食い下がろうとした思惟をどうやら、声音から察したらしい。
「なんだ?ま〜だ納得できねえって顔してるな」
 余裕すら匂わせる笑みを口角に刻んだゼロスが顔を覗き込んでくる。
「どこらへんがわかんねえんだ?俺さまがわかりやすく、ロイドくんでも理解できるようにやさし〜く解説してやっからよ」
  言ってみろよとの好意に、即答で甘えたロイドであった。
「喧嘩の原因だよ」
「原因?」
「ああ」
 柳眉を怪訝に歪めたゼロスへ、頷いてみせる。そうしてロイドは、もっとも気になって仕方がなかった話題を親友に打ち明けたのだった。
「あの二人、あんなに仲がよかっただろ?外を歩く時も、家の中でだってずっと手を繋ぎっぱなしでさ。それなのに、あんなに大喧嘩なんかするのかなって思ってさ。普通はしないだろ?たかがソースと醤油くらいで」
 こんな馬鹿げた話、見たことも聞いたこともない。目玉焼きにつける調味料ごときで大喧嘩し、あまつさえ別れるなんて…!
  ゼロスもきっと、この点に関しては大盤振る舞いで賛同してくれるはずだ。
  そう固く信じきっていたロイドの心はしかし、マッハの速さで裏切られた。 同意を求めるやいなやのことだった。ゼロスが口元に手を突っ走らせ、世にも恐ろしいものを目の当たりにしたかのように顔面を竦みあがらせてきたのは。
 きょとんと小首を傾げたロイドが、理由を尋ねる隙はなかった。
「た・か・が…!」
 手の甲越しに金切り声を上げたその瞬間、空には雲一つないというのに、ゼロスの背後に特大のイカヅチが一発落ちるのがはっきりと見えたものだ。さっきまで吹かせていた余裕の風など、もはや見る影もない。ゼロスのこの驚きぶりといったら、まさに驚天動地、青天の霹靂、足元から鳥ではなく、ソードダンサーが出現したかのような驚倒ぶりだった。
  ロイドの発言により被弾したそのダメージは相当強く、また、よっぽど信じ難いものだったらしい。おののくポーズもそのままに、疑いの目をこちらへと突きつけながらゼロスが確認してくる。
「たかがってたかがってたかがって…!」
  歯の根が震えているように感じられるのはけっして、気のせいではなかったろう。
「たかがって、ロイドくん、ちょっとそれ…本気でいったわけじゃねえよな?じょ、冗談だよな?」
「本気でいったけど?」
 しれっと差し出した答えが意に沿わなかったのか。ゼロスは地団太を踏み鳴らしつつ、抱え込んだ頭を振り乱しながら大音声で喚きだしたのだった。
「だー!わかってない!お前は本っ当にわかってない!」
「どうしたんだ?ゼロス。なにをそんなに暴れてるんだ?」
「暴らいでか!」
 けんもほろろに、ロイドが抱いた素朴な疑問を一蹴してきたゼロスの舌端が、矢継ぎ早に火を吐き出す。
「いいか?ロイドくんよ。耳かっぽじいてよーーく、よーーーーーく聞けよ?目玉焼きにソースと醤油ってやつほど、熱い愛で結び合った男女を別れさせてきたものはないの!いわばやつらは水と油、磁石のS極とN極、真夏のアルタミラと真冬のフラノール、男と女、コピー用紙の表と裏、麗しいウンディーネ様と毎日筋肉鍛えてますなイフリート、ナイスバディなルナ様と闇愛好会会長のシャドウ、氷の華セルシウス様と寡黙と口下手を勘違いしてるヴォルト、墨汁とホワイト!龍と虎!ヘビとマングース!たぬきそばときつねうどん!」
  力の限り握った拳を唸らせ、この世に存在する、ありとあらゆる対極物をもの凄い勢いで羅列する。
「ソースと醤油ってのは、まさしくかような相反する、けっして相容れない者同士!目玉焼きがある限り!そして世にソースと醤油が存在する限り!やつらが、恋人達が別れる理由のベスト1位!やつらはそう、この世界がはじまってからの!いや!有史以前からの!人類が誕生して以来の、世界中の恋人達の天敵なのだよロイドくん!!!」
 劫火の進軍がごとし力説を、ほぼワンブレスで述べ上げた人はこれがとどめだとばかりに、「わかったか!」と、ほとんど怒鳴り声で付け加えてきたのだった。
 ただなすがまま、早口でまくしたてられた演説に耳を貸すしかなかったロイドはといえば、肩で息する演説者を前に暢気な顔で頷いたものだ。
「ふーん。そんなものなのか」
 眼前にずらっと並べ立てられた内容は正直、いまいちよくわからなかったが、こと、男女の仲のことに関しては、彼ほど詳しい人物はいない。そのゼロスが断言するのだ。自分が知らなかっただけで男女間では常識なのだろう、ソースと醤油が原因で喧嘩別れするというのは。
 あっさりと、ゼロスの言を受け入れたロイドだった。
「教えてくれてありがとうな、ゼロス。俺、知らなかったよ。醤油とソースって、そんな大昔から喧嘩の原因になってるんだな」
  会心の笑みを手土産に礼を述べると、ゼロスからもにこつく笑顔が贈り返されてきたものだ。
「そうなんだよ。ロイドくん。わかってもらえて俺さまも心底嬉しいぜ」
「なにげなく食卓に並んでるけど、すっげえ怖いものなんだな。醤油とソースって」
「そうさ。怖いんだぜぇ?なんせやつらにかかったら、どんなに三百六十五日、四六時中熱湯ラブラブな夫婦だろうが一瞬にして絶対零度になっちまうんだからな。さっきの劇みたいにさ。それこそ上は王家のロイヤルカップルから、下はこういった田舎村に住む、お前んとこの両親までな」
「父さんと母さんに限っては、それはないけどな」
 ロイドは満面の笑顔で、ゼロスが述べた一箇所を否定した。否定するやいなや、ゼロスの眼差しに疑いの色が生じる。
「そもそも、父さんと母さんは喧嘩なんてしないし」
「わっかんねえぞ〜?目玉焼き理論は、ありとあらゆる夫婦恋人達に有効かつ天敵だからなあ」
「だから、それはないって。あの二人に限って、そんなことなんかで絶対喧嘩なんかしない。大体、言い合いさえしないんだからさ」
「断言するねえ?でも、どんな夫婦でも喧嘩はするもんだぜ?」
 あくまでも、喧嘩すると決め付けてくるゼロス。ロイドも無論、退かなかった。
「ないってば」
「いや、絶対してるって」
「しないって言ってるだろ」
「するって言ってるだろ」
「しないってば」
「い〜や、やってる。お前さんが見てないとこで絶対してる。隠れてしてる」
「だ〜か〜らあ。あの二人に限ってはないって」
「いやいやいやいやいや」
 互いに負けじと、なかば意地を挟んでの言い合いの応酬の果てだった。半眼と化したゼロスが、妙に楽しげな口ぶりでこんな提案をしてきたのは。
「……ほほ〜。そこまで頑固に言い張るんなら。よし、ここは一つ、賭けをしようじゃないか」
 突然の申し出を受けて、ロイドの瞼が大きくしばたいた。
「賭け?」
「ああ。今からお前んちに行って、お前のお母さま、アンナ様に聞いてみようじゃないか。クラトスと、一度でも喧嘩したことがあるかどうかって。もし喧嘩したことがなかったら俺さま素直に、ロイドくんに謝ろう」
 そんなことならお安い御用だ。どう転んだって勝利はこちらにあるのだから。
 ロイドは笑顔で快諾した。
「いいぜ」
「おっしゃ。賭け成立だな」
 にやりと笑ったゼロスが、髪を颯爽とたなびかせて歩き出す。その後姿を、ロイドが追おうとした時だった。
「あ。そうそう!」
 突如振り返ってくるなりゼロスは、したり顔も最高潮にこう宣言してきたのであった。
「もしも俺さまが勝った暁には、アンナさまとこれから半日、デートさせて貰うからな」
 この見返りに、驚きの目を剥いたのはロイドだ。
「え?母さんとデート…?!」
 まさかそんな代償がつくとは夢にも思わなかった。
 予想だにしなかった展開に立たされて、呆然と立ち尽くすロイドをよそに、ゼロスはうきうきと弾む足取りで帰路を辿りはじめる。
「んじゃまあ、そういうことで。さあ、とっとと俺さまのデート権を確保しに行こうぜ♪」
「ちょ…待てよ、ゼロス!」
 後ろからがっしり、先行くゼロスの二の腕を繋ぎとめる。すると彼からは肩越しに、からかうような視線が流されてきたものだ。
「なんだよ、ロイドくん。男が一度受けて立った勝負を降りようってのか?」
「そうじゃない、そうじゃないけどさ。だけど…!」
 くすぐられる我が身のプライドなど、今はどうだっていい。賭けの罰の対象が自分なら、いくらだって受けて立つ。しかしながら、それが他人にいってしまうなら話は別だ。たとえ肉親であっても、自分が請け負った賭けの代価を払って貰うわけにはいかない。勝てる勝負であろうが、その点だけはどうあっても譲れない。
「だけど、母さんとデートってのはなんか、筋が違うと思うんだ。ほら、負けることはないけどさ、なんていうかその――」
 条件を変更してもらうべく、言葉を探しつつ走らせていたロイドの口はしかし、
「あんれ〜?ロイドくんは絶対喧嘩しないって、自信持ってたんじゃなかったっけぇ?」
 ほんの数分前に交わした話を言質に取られて、ぴたりと立ち止まることとなってしまったのだった。身から出た錆とは、ぐうの音も出ないとはまさしく、このことだった。
「自信あるんだろ?絶対に喧嘩しないって」
「う゛」
「だったら俺さまが、絶対に手に入らないデート権を賭けたって、ロイドくんには痛くも痒くもないんじゃないの?」
 そんな心情を見透かされたか、ゼロスの煽り文句はますます冴え渡っていくばかりであった。反論しようにも、道理は確かに彼の方にあると、そういった方面に疎いさすがのロイドにもわかった。
「うー…あー…まあ、それはそうなんだけど…」
「それともなにか?条件を変えたいってことは、やっぱりあの二人も喧嘩するって認めたってことでOK?」
「いや、それは認めちゃいないけど、でも、それとこれとは」
「だったら!」
 ゼロスが畳み掛けてくる。完全に彼のペースに巻き込まれてしまっていると、今更ながらに気付いてももはや手遅れだった。
 身を翻し、体を正面に向けてきたゼロスの人差し指が、ロイドの胸に置かれる。
「だったら賭けの条件、変える必要はないと思うけどなあ?あの二人は喧嘩なんか絶対しないんだって、実の息子のロイドくんがそこまでいうんならさ」
 その青い双眸に含まれた笑みを見ずとも、焚きつけられているのはわかった。堪えどころがあるとしたら、ここがそうだったであろう。だが、ここまで言われて引き下がれるはずがない。
  男女間の事情に詳しいのがゼロスならば、両親の仲睦まじさを誰よりもよく知っているのは自分だ。ことあの二人に関してなら、ノイシュに続いて二番目に詳しいとの自負も、自信もある。毎日一緒に暮らしてもいる。どう足掻いたって、ゼロスに勝ち目はない。
  完全に勝てる勝負だ。多少の躊躇いはあれど、賭けに乗り込むのに足を引っ張るマイナス要因は欠片もない。――それでも。
「どうするんだ?ロイドくんよ」
「――わかったよ」
 それでもロイドはほとんどやけくそ気味に、ゼロスの条件を呑みこんだのであった。
「その賭け、のってやるぜ」

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