おでんのたまごさんの3周年記念フリー小説(クラアン)です!
Sunny-side up  〜夫婦喧嘩は、まずしい犬も食わない?〜

 

|| 第四幕 ||

 最後のピースがはまった瞬間、滑り落ちた吐息は大きかった。
「なるほど。そういうことであったか」
 妻からことの仔細を聞き、クラトスはベッドの上でようやく、喉に詰まったままの疑問符を吐き出すことができたのだった。夕方より痞えていたそれが取れたおかげで、胸の中もすっきりとした。
 気分は爽やかに、おもてにはしかし呆れ果てた色を滲ませて、クラトスはしみじみと一人ごちたものだ。
「まさか――目玉焼きにつける調味料が、すべての騒動の発端であったとはな」
 不明だった点が、これでやっと、綺麗に繋がった。
 なにせロイドに話を聞いたところ、いきなり猛烈な勢いで頭を下げてくるは、誤った謝罪言語の発表会かと思えるくらいの間違いを連発披露してくるは、なんとも要領の得ない話し方をするはで、結局、事情がよく飲み込めなかったのである。唯一わかったのは、妻が賭けの代償としてゼロスとデートする羽目になったということくらいか。
 息子はしきりにこの点を謝っていたが、そもそも何故賭けをする経緯を辿ったのか、その辺りの内容が綺麗サッパリ抜け落ちていたから始末に負えない。おまけに、もっとも気に病んでいる『デート』の件を慰めるべく、自分達夫婦の絆がいかに強いかと語ってみせたら、今度はまるで、開いた口が塞がらないといった様子で硬直してしまう始末。詳しい事情を追求しようとした矢先、アンナとゼロスが揃って帰宅し、そのまま話はうやむやとなってしまったのである。この胸に、ただ一つの疑問を残したまま――
『賭けに至った経緯とはなんだ?』
 疑義を抱いてからパジャマに着替えるまでの間中ずっと、胸裏に根付いていた自問。それが今ようやっと、解答を得たのであった。正しくは、そこから『夫婦喧嘩が我が家にもあるか?』へと話が転じ、賭けになったそうなのだが。だが、クラトスの目にはもはやそんな、些細な相違点など映りこんではいなかった。
 すべての事情が明らかになった今、目を奪われていたのは他でもない。目玉焼きだ。
 たかだか目玉焼きの調味料ごときで喧嘩が勃発するという、昨今の夫婦事情であった。
「『事実は小説よりも奇なり』とは言うが」
 双肩を落とすだけでは事足りず、微苦笑を零さずにはいられなかったクラトスだった。
「これはまた、その代表格だな。さようなことが夫婦間での、諍いの種になろうとは」
「私もね。ゼロスくんに聞いた時、すっごく驚いちゃったわ」
 陣取った鏡台の前からくすくすと、含み笑いを添えて賛同してきたのはアンナである。その朗らかな韻に目を誘われれば、鏡のなかに咲く妻の微苦笑と出くわした。優しい風合いのピンク色のパジャマを纏い、髪を三つに編みこんだ彼女と出会うのは二日ぶりだった。
 眠る前の、肌と髪の手入れが終わったのだろう。
「思わず聞き直しちゃった」
 彼女はやおら椅子をひき、微苦笑を湛えたまま立ち上がると、
「だって、今まで見たことも聞いたこともなかったんですもの。目玉焼きが原因でケンカするご夫婦が、世の中にいらっしゃるなんて」
 こちらへと足を運ばせながら、そう、感慨深げに言ってきたものである。
 彼女がすみやかに寝台に上がれるよう、クラトスは少しだけ横に寄り、妻の到着を待った。マットレスが浅く沈み、芳しいシャンプーの匂いが鼻腔に満ちたのは、その刹那だ。
「あなたと一緒にたくさん世界を歩いて、いっぱい色んなものを見てきたけど――でも、まだまだだったみたい」
 ベッドに滑り込んできたアンナは最後に、にっこりと笑みの眉を開くや、こう言葉を締めくくって来たのであった。
「世の中ってやっぱり、もの凄く広いのね。今回のことで改めてそう思っちゃった」
「私もだ」
 即答で応えたクラトスである。彼女が覚えた感想はそっくりそのまま、自分の胸裏にあったものと同じだった。
「世界がいかに広く、大きいものであるか。こたびの案件で私も、そのことをより強く実感させられた。――私も長く生きてきたが」
 鼻先から勝手に、失笑が吹き零れる。
「目玉焼きが夫婦の間に不和をもたらすとは、今宵初めて聞いた。世の中とは、本当に広いものだ」
 妻の柳眉を八の字に変えた笑みが、その発言の第一支持者となった。くつくつと笑いながら、アンナが頷きかけてくる。
「ええ、本当ね」
「昔は、さようなことはなかったと記憶しているが」
 クラトスは小首を傾げた。
「それは昨今では、よくあることなのであろうか?」
「ゼロスくんが言うにはね」
 疑問を解決すべく身を乗り出したのはアンナだ。彼女はベッドの上にちょこんと正座するや、自らの瞳をも大きく瞠らせつつ、教えてくれたものである。
「今では日常茶飯事に起こっているらしいわ。なんでも、夫婦喧嘩の原因歴代一位なんですって。なかにはそれが原因で、離婚なさるご夫婦もいらっしゃるそうよ」
 この事実を前にした途端、クラトスは絶句してしまった。声を失うとは――呆れて物も言えないとはまさしく、このことか。
 喧嘩だけでも充分理解に苦しむというのに、なんと、離縁にまで発展するという。
 ここまでくるともはや、その心理状況を理解しようという気すら起こらなかった。少なくとも、己が持つ常識の範疇にはなかった。たったそれっぽっちのことで、愛する伴侶と縁を切ろうなどという考えはこれっぽっちも。
「それは、また――」
 声が続かない。言葉を探し、ただただ唖然とする彼に、笑顔の妻が助け舟を出してくれた。
「驚いたでしょう?」
「ああ、驚いた」
 深々と頷き、素直に認めたクラトスだった。覚えた驚きを振り払うように、ふるふるとかぶりを振っていたのは無意識であった。
「離婚にまでいたってしまうとは…いや、驚いた」
「そうでしょう?目玉焼きでケンカっていうだけでも驚くのに、離婚にまでなってしまうんですもの。私もそれを聞いた時、目を丸め込んじゃったわ。あんまりにも信じられなくって」
「その気持ちはわかる」
 颯爽と、クラトスは妻の体験談に乗り込んだ。まったくもって同感だった。ついでに、思っていたことも話した。
「そもそも、なぜ、喧嘩になどなりえるのであろうか?目玉焼きにつける調味料など、あれしかないというのに……」
 ずっと疑問を感じていた点を語ってみせると、こくこくと熱心に、アンナも首肯を打ち返してきた。
「私もずっと不思議に思っていたわ。目玉焼きっていったら、あれしかないのにって」
「ああ」
 クラトスは目許を綻ばせ、微笑みかけた。アンナからもたちまち、笑壷に入った朗笑が贈り返されてくる。
 見詰め合う瞳と瞳。捧げあう微笑みと微笑み。
 二人が酌み交わす笑みと眼差しの狭間からは、お互いを深く理解しあう、固く結び合った心が見えんばかりであった。
 かろく頷きかけ、クラトスが言った。
「目玉焼きにはやはり、あれしかないであろう」
 そう断じたのへ、咲笑いをおもてに咲かせた彼女が頷く。
「ええ、そうね。目玉焼きにはやっぱり」
 そうしてアンナは立てた人差し指も自信満々に、クラトスは浮かべた微笑も穏やかに、お互い目と目を合わせ、声を弾ませて、いっせーので言い合ったのだった。
「ソースだな」
「お醤油よね」


|| 終 幕 ||

 空気が変わった。
 扉を開け、居間に一歩、足を踏み入れた刹那であった。全身の皮膚がゾッと粟立つ感覚に襲われ、いまだ寝ぼけまなこだったロイドの眠気は一瞬にして、吹っ飛んでいってしまったのだった。
 一体全体、これはどうしたことか?肌を切らんばかりのピリピリした空気が、居間のそこかしこに満ち溢れていた。それだけではない。テラスから射しこんでくる、眩しくも柔らかな朝の陽射しすら退けるほどの冷気も漂っている。まるで、静電気をたっぷり孕んだ水の中に入ってしまったかのようだった。それに、水を打ったような静寂のおかげか、庭先で囀っている雀の鳴き声さえ、不思議と遠く感じられたものだ。
 その元凶を、探しだすまでもなかった。部屋に入るやいなや、ロイドの目はほとんど本能的に発生源を嗅ぎつけていたからだ。
 ピリピリした空気を辺り構わず放っていたのは誰あろう、父親のクラトスだった。椅子の背もたれに背中を預け、足を組み、両腕を固く結び合わせている。食卓を前に、ただ何をするでなく座っているだけだというのに、その存在感たるや、尋常ではない。眉間に皺を寄せている気配が、遠目からでもプンプンと嗅ぎ取れた。双眸を閉ざしているのが、唯一の救いか。こうやって目蓋を下ろしていれば、ただ静かに、思案に暮れている様子にも見えないこともない。だが、じっと瞑目するそのおもては、お世辞にも機嫌がいいものとは言い難かった。はっきりいえば、怖かった。昨日の夕刻、二人っきりで対峙していた時よりもなお怖い。傍に近寄りがたくもあり、また、これ以上この部屋に足を踏み入れたいとも思えなかった。
 お腹はぺこぺこだったが、朝食などいらない。出来うれば回れ右して、自室に引き返したい。それはしかし、出来そうになかった。いや、空気がそれを許さなかった。蛇に睨まれた蛙のようとはまさに、このような状況をいうのだろう。
 進むことも戻ることも出来ない。入り口で立ち往生するロイドの背中に、後続者の体と不満の声がぶつかってくる。
「なんだよ、ロイドくん。急に立ちどま」
 不平も途中で止まった。どうやらゼロスも、この異様な雰囲気を察したらしい。声を潜めて囁きかけてくる。
「おい、なんだよ。ロイドくん。なんでクラトスのヤツ、怒ってんの?」
 小声で耳打ちしてくるのへ、やはり、小声で言い返したロイドである。
「知らないってば。俺だって一体、何がなんだか…!」
「別に、怒ってなどいないが?」
 突如水を注してきた声に、ぎくり、鼓動が音を立てたのは二人同時、こうべを声の主の元へそろりそろりと尋ね歩かせていったのも、まったく一緒だった。
「そんなところで突っ立っていないで、ここに来て、座ったらどうだ?」
 そうは言われてもだ。席につくということ、イコールそれは、クラトスの眼前に座るということだ。あんな、あからさまに剣呑な雰囲気を放っている人間の目の前に座れと言われて、一体誰が、素直に従えるというだろう?
 そんな相手の側になど近づきたくないというのが、人間としての正しい心理だ。だから「ロイドくん、先に行けよ」と、小声で背中をせっついてくるゼロスの行動はある意味、理に適っていたし、「いや、ゼロスが行けよ」と後ずさりながら先を譲ったロイドの行動も、人として正しい姿であった。
 二人がしばらくの間、お互いに道を譲り合っていると、再びクラトスの声が飛んできた。
「なにをそう揉めることがある。早く座るがいい」
 物言い自体は普段と変わらなかったが、その声にははっきりと、内に秘めた怒りがみえたものだ。それが自分達に対してなのか、他の案件のものなのかはわからない。けれど、大人しくその言に従わせるのに、存分な力を秘めていたのは確かだった。渋々歩き出したロイドにやや遅れて、ゼロスの足音が嫌そうについてくる。
 一歩進むのにも、もの凄く勇気がいった。
(うー…なんだって自分ち歩くのに、こう、ダークドラゴンの尾っぽ踏んづけないようにして歩かなきゃいけないんだ?)
 心の中でそう文句を垂れながらも、ロイドは助け舟を求めるように、目線を走らせていた。
 この重苦しい状況を打破できるのはただ一人だ。だが残念なことに、いつもなら朗らか笑顔を振りまいて、「おはよう」と言ってくれる人の姿は見当たらなかった。台所の方にも、いる気配は感じられない。朝食の場にその存在がないのは、これが初めてだった。きょろきょろと室内を見渡しがてら、思わず所在を尋ねていたロイドである。
「あれ?母さんは?」
 父親からの返答は早く、そして、実に素っ気なかった。
「出て行った」
「出て行った?」
 どこへ?と、言葉を継ごうとした矢先だった。「ちょ…!ロイドくん、あれ…!」と、ひどく慌てふためいたゼロスの声が注意を促し、後ろから伸びてきた指先が食卓の上を指し示してきたのは。
 寝癖のついたこうべを傾げるついでに、促されるままにそちらを見たロイドは――絶句した。ここに足を踏み入れて以来ずっと、気もそぞろだったおかげで、初めてまともにそれと相対した衝撃は凄まじかった。
 一瞬――本当に一瞬、季節はずれのタンポポの花が食卓一面に咲いているのかと思ったが、違った。タンポポかと思ったそれは全部、卵を使った料理だったのである。おおよそ考え付く限りの玉子料理が、所狭しと盤面を埋め尽くしている。なかでも最も目を奪われたのは、大皿の上にど〜んと乗っかっている目玉焼きだ。幾重にも積み重なって、聳え立っている。まるで、鬼の首を取ったかのように……。
 母親の不在と父親の剣幕。そして――目玉焼き。恐ろしいことに、状況はそっくりだった。
(これってまんま、昨日の劇と一緒…!)
 例の一幕を思い出し、戦慄を覚えてしまったロイドだった。
 あんなに慌てふためいたくらいだ。ゼロスもたぶん、同じ感覚に捕らわれているのは間違いないだろう。
(でも、まだそうって決まったわけじゃ…うん。そうじゃない。ここはまず、そうだ、確認。確認が先、ドワーフの誓い第828番『石の橋があったら、叩き壊して新しいのを自分で作って渡れ』だ。とにかくまずは、なんで目玉焼きがあんなに一杯あるのかから、遠まわしに聞いていこう)
「あ、あのさ、父さん」
 目玉焼きに意識を奪われたまま発したせいか、思いっきり引き攣った音声となったが気にせずに続ける。
「なんで今日の朝ごはんは、目玉焼きなんだ?しかも、こんな一杯…」
「ついでに聞くと、なんだって玉子焼きがうず高〜く積んであるんだ?二十人分くらいは余裕であるんじゃないの、これ?」
「――昨夜」
 うっそりとクラトスが言った。眼瞼も取り払われ、その奥に隠されていた鳶色の瞳が姿を現す。
「彼女と話をしたのだ。目玉焼きにかけるのは、何かと」
「おいおい、なんだってそんな話になったんだ?」
 ゼロスの疑問に、ぎろり、クラトスの一睨が飛ぶ。その目つきにはありありと、「お前達が初めにしていたのではないか?」と書かれていたものだ。
 ロイドが慌てて口を挟みこむ。
「そ、それで?」
 先を促したのは、話の続きが気になったせいじゃない。こうしている今も虎視眈々と光る、父親の目から逃れるために他ならなかった。
「父さんと母さんはなんだったんだ?もちろん、一緒だったんだよな」
「私はソース。彼女は醤油派だった」
 耳を疑うよりも早く、脇の下に冷や汗が生じた。顔から血の気が引いたのも自覚したロイドである。反射的に顔を見合わせたゼロスのおもてもまた、青ざめていた。最悪の事態を想定したのはどうやら、自分だけではなかったようだ。
「昨夜はそれで、遅くまで色々と話し合ったのだが。だが、まさかこんな羽目になろうとは」
 ぐしゃり、何かが握り潰されたかのような音に視線を返すと、そこには険しい面持ちで右手を見下ろしているクラトスがいた。その拳のなかで、ぐしゃぐしゃに握り潰されていたのは紙である。
 憎憎しげに紙を睨みつけ、クラトスは語気を荒げた。
「私になんの断りも入れず、こんな紙切れ一枚を置いて出て行くとはな」
「え?それって、ひょっとして……」
 ぼそっとゼロスが呟き、最後まで言い終わらぬうちに口中に掻き消えた言葉。彼が何と言わんとしたのか、ロイドにだってわかった。この状況下においてだ。別れを告げるべく置いていく紙といったら――一つしかない。
(そんな…本気で別れちまうっていうのかよ?)
 腹が立った。こんな馬鹿げたことで出て行ってしまった母親に対してもだが、一番怒りを覚えたのはクラトスにだ。その後を追おうともしなければ、姿を探そうともしない。ただ瞋恚を囲って座しているだけの態度に、猛烈な怒りを覚えた瞬間、ロイドは犬歯を剥いていた。
「なに暢気に座ってんだよ。なんで追わないんだよ!」
 ドカドカドカと、床板を踏み鳴らす靴音も荒々しく、その元へ詰め寄りながら一喝したというのに、クラトスは煩わしそうに一瞥をくれてきただけだった。
「追ったところでもう遅い」
「遅いかどうか、やってみなきゃわからないだろ?探して謝ったらまだ…!」
「探す必要もなければ、謝る必要など一切ない」
 悪びれる様子は微塵もなかった。我関せずといった風体で腕組みをし、居間の入り口を睨み据えている。頑と意見を曲げない姿勢に、ロイドはいっそういきり立った。母親との対話の時もきっと、このような姿勢を貫いたのは想像に難くない。
 父親の真横に仁王立つや、
「母さんとの時も、そうやって言い張って……折れなかったのか?」
 怒気すら含んでそう尋ねると、相手は一瞥すらくべずに、尊大な態度でこう言い返してきたものだ。
「折れる必要など、どこにある?」
「あるじゃないか!」
 声高に叫ぶ。驚いたように見上げてきたクラトスが、何か言おうと口を開きかけたけれど、ロイドはそれを許さなかった。
「クラトスが折れれば、こんなことにはならなかったんだ!」
 そう、父親が意地を張らずに折れていれば、母親があんな紙を――離婚届一枚を置いて出ていくという最悪な事態には決してならなかったのだ。その想いが、彼の声を荒げさせた。
「母さんのこと、すっごく大好きなんだろ?感情をコレステロールするのが得意なくせに、それが出来なくなって殴っちまうくらい大切なんだろ?」
「いや、ロイドくん。それをいうならコントロール」
「なんだっていいさ!」
 ゼロスの突っ込みをロイドは一蹴した。
「母さんのこと、そんなに大好きなくせに、なのに、たかが醤油とソースくらいで別れちまっていいのか?そんなもんで壊れちまうくらいの気持ちだったのかよ!父さんと母さんなら、恋人の天敵だってラブラブの神様に変えちまえるって思ってたのに!見損なったぜクラトス!」
 一息にまくしたて、強く詰ったものの、怒りは収まろうはずがない。ロイドはありったけの怒気を篭めて相手の顔を睨み据えたが、しかし、父親の反応は恐ろしく鈍かった。そのおもてを飾った表情を表すのに最も似合う言葉を探すとしたら、”ぽかん”が的確であったろう。
「ロイド、お前は」
 つと立ち上がってきたクラトスは、心底不思議そうにこうべを傾け、怪訝に満ち満ちた眼差しで尋ねてきたのである。
「お前は先ほどから、なにを言っているのだ?」
「なにって、母さんが出て行っちまったのは…!」
 ロイドが、文句を言い切らぬうちだった。軽やかに居間の扉が開き、
「ただいま、遅くなってごめんなさい」
 帰宅を告げる挨拶も天真爛漫、渦中の人がノイシュとともに、弾むような足取りで登場したのは。
 エプロンもつけっぱなし、息せき切った様子で現れたその姿に反応して、目が点となったのはロイドだけではない。ゼロスも振り返りがてら、同じ末路を辿っていた。
 離婚届を置いて出て行ったんじゃないのか?!
 点となった二人分の目からは、そんな、声にならぬ声がだだ漏れていたものだ。
 ロイドとゼロスが呆気に取られ、口をぱくぱくさせているその真横を、クラトスが猛スピードで駆け抜けていった。
「アンナ!」
 手の中の紙が落ちたのにも気付かず、一目散にアンナの元へ駆けつけるやその肩をがっしりと掴み、
「一人で出かけるなと、あれほど言っているだろう!」
 声高にそう訴えたクラトスである。
 身を案じるこの発言に、「え?出かけただけ?」と疑問を挟んだロイドの声も、続いて奏でられた母親の言の音の前では見向きもされなかった。
「大丈夫よ、一人じゃないわ。ほら、置手紙にも書いてあったでしょう?ノイシュと一緒に、ダイクお父さんのおうちへソースを借りにいくって」
「へ?置手紙?」
「ソースを借りに?」
 虚をつかれた鳶色のまなこが丸くなり、呆気に取られた青い瞳がきょとんと瞬いた。そこからのびた各々の視線が、床に転がっている紙を捉える。くちゃくちゃになり、哀愁すら漂わせて落ちている紙。それを見つめる両者の瞳たちが静かに語っていた。
 ただの書き置きかよ…と。
「ソースがないのであれば、店が開くのを待ってから、この村で買えばよかったのだ。わざわざ危険を犯す必要など」
「駄目よ。今朝一緒に、タマゴパーティーをしようって約束したでしょう。約束は守らなくっちゃ」
 この発言を受けて、ロイドとゼロスの頭上に巨大な疑問符が浮かんだ。いまや二人は完全に部外者、傍観者であった。
「は?タマゴパーティー?」
「って、なんじゃそりゃ?」
「約束はしたが」
 首を傾げあって悩む二人をそっちのけに、クラトスの弁がなおも熱を揮う。
「ならば、予定を変えて今日の夜にでもまわせばよかったのだ。私はそれでも全然構わなかったのだが」
「それがね。私、このパーティーがとっても楽しみで、買い置き分のタマゴ全部使っちゃったの」
「「ああ、それがこの結果か…」」
 食卓を埋め尽くす玉子料理のパレードに視線を移して、ぽんと手を打ち、異口同音に呟いた傍観者たちだった。
 事情も薄々と知れてきた。どうやら、目玉焼きがきっかけで何故か昨夜は大盛り上がり、今朝、玉子料理でパーティーしようとしたものの、ソースが切れててさあ大変、アンナがダイクの家に一人で走ってしまったのを知ったクラトスが、その身を案じて苛立っていた――ということか。
 心配する気持ちはわからないまでもない。わからなくもなかったが、なんにしたって、大変はた迷惑な話であった。というより、置手紙といいクラトスの様子といい、まっこと紛らわしい。
 ロイドとゼロスの唇から盛大な溜め息が溢れ出る。
((まったく人騒がせな))
 息子とその親友に、胸の内でそう思われているとも知らないクラトスとアンナはといえば、あいもかわらず見詰め合ったまま、二人の世界を構築していた。
「タマゴを使い切っちゃったからには、なにがなんでも今朝、パーティーをしなくちゃって思ったの」
「何もそう気を張らずとも……タマゴなど、また買えばすむ。新たに買った分で今宵また、パーティーをすればよかったのだ」
「うん。それもちょっぴり考えたんだけどね。でも私――私、一秒だって早く、あなたの好きなソース味の目玉焼きを食べてみたかったんですもの」
「アンナ…!」
 じんと胸を打たれたのはクラトス、うっぷと胸焼けを覚えたのはゼロスだ。すっかり見慣れているロイドでさえ、もう勝手にやってくれと思ったものである。そう思わなくっても、二人の世界は当然のごとく続いたが。
「ああ…でも、ラップはかけていったけど、すっかり冷めちゃったわね。ごめんなさい。私ったらうっかり、ソースが切れてるのを忘れちゃってたから…」
「大丈夫だ」
 きっとそういうに違いないと思ったロイドの予想通り、はたして父親はその手を取るや、しゅんとしょげ返った母親を慰めにかかったのだった。
「冷めようが関係ない。君が作った料理なら、たとえ凍り付いていようが舌鼓をうてる。ましてや君が汗を流し、労を払って借りてきてくれたソースがあるのだ。冷めた料理にも再び、命が灯ろう」
「それは私もよ。どんなに冷め切っていても美味しく頂けるわ。だって、あなたの好きなソースが一緒なんですもの。私の口の中できっと、冷めたお料理と一緒に素晴らしいハーモニーを奏でてくれるわ」
「アンナ――」
「クラトスv」
 お互いの愛情を確かめるように、愛し合う夫婦がひたと、時も忘れて見つめあう――これが劇ならば、一番の盛り上がりはまさしくここであったに違いない。が、ここは舞台でもなんでもない。ただの一般家屋、普通の日常である。
 素で演じられる、百合の花の香よりもなお甘ったるいムード。祝福の鐘の音さえ本当に聴こえてきそうなシチュエーション。
 これらに中てられて、耐え切れずに音をあげる人間が現れたのも無理はなかったろう。顔にかかる赤毛もしんなりと、ゼロスがげっそりした面持ちでギブアップの声をあげた。
「あー…えっと。二人の世界に浸りきってるとこ悪いが、俺さまたちの存在、忘れきってないか?お二人さん」
 背後から生まれた困惑の音の色に、わざとらしい咳払いで応じたのはクラトスの方だった。ぼそっと小声で一言、「アンナ」とも、付け足されたものだ。
 さすが夫婦、それだけで通じたのであろう。母親は同じく小声で、妙に気まずそうなおもてで父親に囁き返したのである。
「あ、そうね。子供たちの前でケンカなんて、大人気なかったわね」
「「喧嘩?」」
 ロイドとゼロスの声が綺麗にはもった。
「「え?いまのそれの一体どこらへんが喧嘩?」」
 異議を申し立てると、母親のアンナは困ったように頬に両手を添え、赤面しながら言ってきたものだ。
「もう二人とも。嫌だわ、大人をからかっちゃ駄目よ?」
「そうだ。大人をからかうものではない」
 大真面目な顔で父親も反論してきたが、からかってるのはあんた達の方だろう?と、胸の内で突っ込んだ二人である。
 どうみたって喧嘩ではない。どの角度から見ようが世にも正しい、恋人同士のいちゃいちゃだった。
「さあ、席につくがいい。朝食にしよう」
 クラトスが、開いた口が塞がらないといった体で佇む二人に声をかけてくる。アンナの声もそれに続いた。
「ええ、すっかり遅くなっちゃったけど、朝ごはんにしましょう。今朝はね、なんと、タマゴ尽くしのタマゴパーティーよv」
「あ…うん」
 満面を綻ばせて料理を紹介してくるのへ、ロイドは力なく頷き返し、ゼロスは疲れきった声音で応えたのだった。
「そうらしいな。――てか、見ればわかるって」


 当人達のいう『喧嘩』をほぼ終始、齧り付きで眺めることとなった朝食タイムを終えて、二階のロイドの自室に戻ったあとの話だ。精も根も尽き果てた様子でベッドに突っ伏していたゼロスが、ぐったりした声で白旗を掲げてきたのは。
「ロイドくん…俺さま、撤回するわ」
 ノイシュの毛をブラッシングするその手を止めて、ロイドは彼の方を見やった。
「お前んちの両親には――いや、お前んちの両親を前にしたら、喧嘩の神様も恐れをなして裸足でネギしょって逃げてくわ。今更だが、賭けはお前さんの勝ちだ」
「ほんと、今更だな」
 ニヤっと、一笑を零したロイドである。そうしてブラッシングの手を再開させながら、「今回のことでわかっただろ?」と、胡坐をかいた床の上から勝利宣言をしたのだった。
「父さんと母さんに限って、『喧嘩』なんか絶対しないって。なんたって、夫婦喧嘩の理由一番のソースと醤油も、仲を深める道具にしちまうんだからな。見ただろ?」
 ロイドの瞳がきらきらと輝き、音吐が興奮の色に染まった。
「朝ごはんの間中ずっと、仲良さそうに話す二人の姿!ソースと醤油を前にしてだぜ?これって、凄いことじゃないか?」
「あー見た見た、凄いも凄い」
 笑顔も満開、誇らしげに語ってみせたロイドへ宛て、いたく投げやりっぽい口調で応えてきた彼は最後にこう、声のボリュームを最大限に潜ませて言ってきたのであった。
「あれこそ、『夫婦喧嘩はまずしい犬もくわない』っていうヤツだよ。ロイドくん」
 ロイドは笑み崩れた。
「だってさ、ノイシュ。やっぱり、俺の父さんと母さんは世界一、仲のいい夫婦だったんだな」
「わふん!」
 主従揃って破顔する姿を横目に置き、「いや、褒めてねーから」と、ゼロスが脊髄反射で突っ込みを入れたのはいうまでもない。
 アウリオン家の人々の心は、今日も今日とて平和そのもの、幸せ一杯だった。

Happy End

敬愛する「おでんのたまご様」より3周年のフリー小説を頂いてまいりました!
もう…もうクラアンがっクラアンがっ…最初から最後までニヤニヤしっぱなしでした。
クラアン=空気?って位呼吸の音も邪魔な位引き込まれて読ませて頂きましたvv
読んだ後ほんわかと幸せな気分にしてくれる素敵な小説本当にありがとうございましたっ。
本当幸せ!

※こちらのフリー小説の著作権は全て神冬様にあります。