Lilac〜君に逢えてよかった〜 |
あれは―――ロイドがいまだ、アンナのお腹にいた頃のことだった。 (ん?) 私たちは、宿を取った近くの食堂で夕食の席についていた。 向い合う席に座る妻は、妊娠五ヶ月。 クルシスの手から逃れるためとはいえ―――命を息吹かせ、その体内で子を護り育む妻に安住の地を与えることが出来ないまま、身重の旅を五ヶ月も過ごさせてしまっているのが心苦しかったが、 『あら、私なら大丈夫よ。妊娠中は運動も必要だって言うし、歩くの大好きだし。それに世界中のあちこちの、いろんな風景を見ることが出来るんだもの。私もこの子もとっても幸せよ』 妻のアンナはこともなげにそう言い、 『私たちなら平気。だから一緒に歩いていきましょう。ね?』 屈託なく笑う、輝くようなその笑顔に―――私は甘え続けていた。 いついかなる時も、彼女の頬には微笑が咲いている。 長い睫は優しい翳りを瞳に落とし、ヴァイオレットの大きな双眸は澄み渡って世界へ注がれている。 傍らで見上げてくる眼差しと、私の心癒すようなその微笑。 いつだってアンナのおもてから、柔和な微笑が途絶えたことはない。 ―――だが。 (どうしたのだ?) 私は見つめる視線に、訝しさを込めた。 彼女の元へ、つい先刻届けられたパスタ。それへ目を落とすアンナの姿には、いつものあの、世界を包み込むかのような眼差しと、癒しの力持つ微笑みが掻き消えていた。 双眸は訝しそうに瞬き、小首を傾げた頬に髪がふわりと舞い落ちる。 (なんだ?) 妻のそんな様子を怪訝に思い、問おうとした矢先、彼女の指先がパスタの中から答えを摘み上げてきた。 私は眉を顰めた。 髪の毛だ。 長さからいって、おそらくは女性のものであろう。 白く細い指先に摘まれているそれは、妻が持つ、バーントアンバーの髪色と似てはいる。長さもほぼ、同じくらいだろう。髪質はしかし、妻のものとは違い固そうで、なによりウェーブが入っている。 アンナの髪はストレートだ。 この髪は他人のものである。 「…入っていたのか?」 声を潜めて問えば、 「ええ」 アンナは軽く頷き、取り出した髪をペーパーの上に置きつつ苦笑を咲かせた。 「大当たりしちゃったわ」 「そうか」 頷き返す。 当たりは当たりであろうが、こんな当たりは必要ない。 唇を引き絞り、店内へ目を送り出す。夕食時ということも手伝って客席は満席、その対応に追われているのか、私が求めている店員の姿は誰もが業務を請け負っている。 「クラトス、ごめんね」 妻が声を潜めて語りかけてくる。私は、「気にするな」と、声だけで応えを返した。すぐさま「ありがとう…!」という、声音輝く礼が戻ってくる。 料理を取り換えて貰うべく、手の空いている店員を求めて無言で視線を彷徨わせていた私だったが、 「じゃあ、ごめんね。お言葉に甘えて、ちょっとだけいただきます」 耳朶に触れてきた、嬉々と弾む彼女の言葉に声を荒げて振り返った。 「待て!」 「な、なあに?」 びくっと肩を躍らせ、フォークをパスタに絡ませたアンナが、驚いたように目を丸めてきた。が、すぐに照れ笑いを浮かべるや、 「あ。そ、そうよね」 フォークを楚々とテーブルへ置き、ぺこぺこと頭を掻きながら、こう謝ってきたのだった。 「あなたのカレーが来るまで、ちゃんと待たないとね。ごめんなさい。ちょっとお腹が空ききっちゃってて」 「そうではない」 きっぱりと、意見の相違を指摘する。 この声も。先の私たち夫婦があげた声も。幸いにも、店内に満つる喧騒で掻き消された。 「なぜ、それを食べるのだ」 「え?だって、これが食べたいって注文したから」 「いや、そうではなく」 ペーパーに安置されている問題の髪を視線で押さえこみ、そうして私はアンナへ目の先を戻して言った。 「入っていただろう」 「ええ」 「ならば、代えて貰わねばならん」 「どうして?」 心底不思議そうな小首の傾げが、対岸よりやってくる。 直球の言葉をぶつけてやらねば、なんだって大らかに、やんわりと包み込んでしまう彼女の心まで届かない。 疑問に瞬くヴァイオレットの双眸を見つめ、声に力を込めて私は告げた。 「アンナ。そのパスタには、髪が―――」 「駄目よ。クラトス」 ぴしゃりと、アンナが言葉を遮って来た。 いつもと同じ、温和な声ではあった。だが普段とは違う、嗜めを含んだ厳しい声音だった。 訳が分からず、私はただ彼女を見つめた。 「それ以上は言っちゃ駄目」 人差し指を唇の前で立たせ、周囲へ目を走らせつつ口早に囁いてくる。 「そんな大きな声で言ったら、お店の迷惑になっちゃうわ。だからその『言葉』は、言っちゃ駄目。このことは、私達の胸の中だけに秘めておきましょう」 「なぜだ?」 先の妻に倣い、今度は私が目を丸める番となった。 胸に秘めておくことは容易いが、それではいけないのではないかと思う。 「なぜ我らが胸に秘めておかねばならん。語るなというなら、それを見せればよいだけであろう。さすれば秘密裏に、品を取り替えてくれるはずだ」 「私なら大丈夫よ。別にこれくらいなら、交換なんかしなくても。全然気にしてないから」 「君がよくてもな、アンナ」 気遣いでも、詭弁でもなく。心の底から、本気でそう思っている妻へ熱弁を揮う。 「店の者へ、かようなことがあったと伝えてやった方がよいのではないか?今、しかるべく処置を講じさせてやらねば、今後、同じようなことが起こるやも知れん」 アンナが困ったように微笑んでくる。 微笑みはだが、瞬く間に去っていった。 「ええ」 目を伏せ、見つめる先を右下へ流していく。長い睫が目元に陰影を作り、なんともいえぬ、物憂げな表情となる。 彼女の視線が落ちる地。そこには話題の中心となっている髪が、真っ白なペーパーに身を丸められて横たわっていた。 アンナはそのペーパーを、そっと手元へ引き寄せ、 「…うん」 テーブルの上でくるくると、まるで花束を抱かせるようにペーパーを丸めながら、パスタに同伴していた髪を押し包んでいく。 「そうなんだけど…ね」 指先を丁寧に動かしつつ、彼女が頷きを一つ落とす。 そうして、押し包む指を休ませることなく静かに、 「ねえ―――クラトス?」 私の名を静かに、優しく囁きかけてきたのだった。 彼女をじっと見つめ、首に軽く斜をかける。 「ん?」 「私の家が食堂をやってたって…言ったかしら?」 「聞いている」 深く頷く。 彼女の家が、ルインで飲食店を営んでいたことは、世界を共に流転しだして半年後くらいに耳にした。 人間牧場で長く幽閉され、過酷な境遇に身を置いていたとは思えぬほど、要の紋のないエクスフィアを取り付けられているとは思わぬほど―――アンナは傍らに居るだけで、心を春のように心地よく、穏やかな気分としてくれる娘だった。 『こうみえても、私がお料理とか運んでいたんですよ。え?お店の名前ですか?うさぎと月の都亭って言うんです』 私はその店へ行ったこともなかったし、世界にそんな店が存在するということすら知りもしなかったが。 当時はまだ、今のように愛を誓い合う仲ではなかったが、このことを聞いて私はこう思ったものだ。 彼女が店内で給仕をしていたのだ。きっと素晴らしい佇まいで、店内は笑いに満ち、客の足も多かったのであろう―――と。 「「うさぎと月の都亭」であったな。君の家の店の名は」 俯いていたアンナが、はっとした面持ちで私を見つめてきた。おもてを跳ね上げてきた彼女のそこ一杯に、感嘆が広がっていくのを私は目撃した。 「名前…」 ぽつり、唇から落ちてきた彼女の声が震えている。 「私の家の食堂の名前…覚えててくれたの?」 驚きに見開かれたヴァイオレットの双眸。 「ああ」 彼女の双眸を抱き留めながら、私はゆっくりと首を縦に振った。 「覚えている」 「あ―――」 言いよどんだ声音が喉に絡み、感激に揺らいだ。 私をまっすぐに見つめ、アンナが告げてくる。 「ありがとう」 「私が覚えていただけだ。君が礼を言う必要はない」 かぶりを振って、謝辞を送り出す。そして私は、当時は言えなかった感想を彼女へ贈ったのだった。 「この店のように―――きっと素晴らしい佇まいだったのであろうな。君の家の店は」 「嬉しい言葉ありがとう」 手を打ち合わせて、彼女がぱっと微笑んだ。真夏の太陽の下で咲く、向日葵のような微笑だった。 「でもね」 両肘をテーブルに付かせ、組んだ両手の甲の上にアンナは顎を乗せた。その顔からは向日葵の微笑みは去り、苦笑いがくすくすと座り込んでいた。 「うちのお店はこんな洒落た、素敵なお店ではなかったわ。下町の定食屋って感じ」 店の中へ視線を歩かせ、彼女が言う。 私には―――見ること叶わなかったが。 彼女の双眸の奥ではこの店と、自分の家の店を重なり合わせていたのだろう。眼差しにふと郷愁がよぎったのを、私は見つけてしまった。胸が摘まれる。 「アンナ………」 「だけどね、クラトス」 右の掌へ右頬を預け、気丈にも、にっこりと微笑んでくる。 「下町の定食屋でも、私にとっては世界一のお店だったわ」 私も微笑み返した。 「そうか」 「ええ」 アンナが目元を綻ばせて、花のように笑った。 テーブルに寝そべらせていた左手が小さく上がり、 「うちではそうしなかったけど」 彼女の人差し指がそっと、真下にある一点を示す。私を見つめるおもては笑みを湛えたまま、けれども眉根を寄せて示しているのはあの、ペーパーにきちんと包まれた髪。花束を抱くようにされたペーパーの中から、申し訳なさそうに覗く髪を指し示しながらアンナが囁く。 「他のお店では、こういったものが入ってたお料理は捨てられちゃうのよ」 「そうか」 それも仕方がないことだと思う。なんといっても髪だ。身内のものであれば、なんとか食べようとも思えるが、赤の他人のものとなれば話は別だ。 気持ち悪いし、なにより不衛生である。 私は騎士団に在籍をし、身一つで世界を旅していたこともあり、そういった感情は抱くことすらなかったが。大概の人間は皆、この感情を有していると思う。 だからこのような飲食を生業とする店では、そのような廃棄処置をするのは当然だと思う。 私がそう述べようとした手前で、アンナがさらり、笑顔を引き連れて言って来た。 「勿体無いでしょ?」 思わず、喉まで出掛かっていた言葉を飲み込む。 勿体無い。 確かに―――確かにそう言う意見もあるかもしれない。 だが、しかし……… 「………」 言葉に詰まる。 二の句が次げない私の、心の中の葛藤を見出されてしまったのかもしれない。 「見て。クラトス」 妻はその腕を伸ばし、テーブルに備え付けの調味料置き場から小さなボトルを持ち出してきた。 「このソースいれ」 ソース入れを右手に持ち、左手の人差し指で指し示してくる。 「注ぎ口。まったく液垂れのあとがないでしょ?」 言われてみれば、中身が垂れ落ちた筋がない。こういったものは一度でも使用すれば、注ぎ口より落ちた名残が、その口と、直下に連なるボディの方に汚れの固まりと筋を残す。彼女の持つソース入れには、それが微塵もなかった。 「これだけじゃないわ。私達の座るテーブルにも目を向けてみて」 促されて、私は視野を広げた。 白いテーブルクロスの敷かれた、二人がけの小さなテーブル。店内のどのテーブルの上にも各自、その席を照らす専用の照明器具が設えられている。小さな月を思わせる丸い、質のよい紙でよろわれた照明だ。そこから放たれる光は、黄昏の刻限を思わせるものだった。おそらくは中に、ランプが仕込まれているのだろう。しかし周りの紙が邪魔をし、さほど明るくはない。 店内はほんのりと暗く、私達へ降り注いでくる照明は仄明るい。が、不思議と心落ち着く彩光でもあった。 「テーブルクロスも真っ白で綺麗だわ」 自分達の席を観察する私の耳朶に、アンナの説明が掠めていく。 テーブルクロスを見やれば、はたしてそうであった。折り目が入っていることを見れば、毎日洗濯して糊付けしていることは窺い知れた。 「ランプの傘にも埃はないし、食器も綺麗に磨かれている。私が店に入ったときだって、何も言わなくても膝掛けを持ってきてくれたでしょ?席だって、風の当たらないように奥まった場所を勧めてくれた。クッションだって、ほら!」 彼女の椅子の背もたれから、ちょこんと覗くクッション。ふわふわと柔らかく、とても温かそうなそれを指差し、アンナが嬉しそうに微笑んだ。 「かってくれたし!気配りでお腹一杯になっちゃうわ」 彼女の言うとおりだった。まったく気付かなかったが、指示を受けたところを観察すれば、目を瞠るような清潔ぶりだった。 そしてもっとも感心の目を贈ったのは―――膝掛けだ。 「そうだったな」 入店した時のことを思い出す。 店はすでに混みいっていた。客待ちする席についたアンナへ、店員はすっと膝掛けを差し出してくれたのだ。このことに私は感心し、頭が下がった。 席だってそうだ。冬の寒気が足元忍び寄る入り口付近を避け、もっとも奥まった、暖気溢れる地へ案内してくれた。 腰が冷えてはいけないと、背もたれにクッションも宛がってくれた。すべて身重の妻を案じてのことだ。 感心の吐息を零しつつ、私は呟いた。 「ここまで気を配る店というものは、滅多とないであろうな」 「でしょ?こんな細やかな気配りが出来るお店なんだもの。きっとたまたま、だったのよ―――これは。じゃないと、こんなにもたくさんのお客さん、来るはずがないわ」 客は多い。夕食時のピークは過ぎようとしているのに空席にはならない。 席待ちの客もまだいるようである。 客が多いのは、単純に料理が美味しいだけかも知れないし、他の店が満杯だったからかも知れない。 だがこの清潔感漂う店が、客を呼び込むのも頷けた。私達夫婦が店舗を見て、そうやって選んだように。 妻の意見は、一部もっともだ。頷ける。 店の気配りにも感服する。 しかし――― 「だからこのことは、私達の胸の中に入れておきましょう。ね?」 それとこれとは、話が少し違うような気がした。 「こんなにお客さんがいるところで、店員さんを呼びつけたら迷惑になっちゃうわ。換えてもらったら、それだけで何かあるってばれちゃうし。これくらいなら」 問題を含んだペーパーをパスタの隣へ並べ置き、話を続けてくる。 「こんな素敵なお店だもの。こうして置いておくだけで、きっと気付いて、今後は改善してくれるわ」 「―――それはそうなのだが」 アンナの言い分も、正しい部分もある。けれどもその意見を尊重すると、不衛生なものを客たる我らが―――彼女が食べなくてはならないのだ。そこだけが私の、もっとも譲れない点である。 「そりゃあね。私だって」 一向に首を、素直に縦に振らない私を慮ったのか、 「私だって、駄目なものはあるわ」 アンナが唇に苦笑を滲ませて言って来る。 「こんなものとか」 そう言いながら、右手の人差し指の先端をこちらへ向け、中空をジグザグに動かし始めた。その動きは、羽虫が飛ぶのに似ていた。おそらくは、そうなのであろう。 ふらふらと空を漂っていた指がテーブルにつくや、 「こんなのとか」 今度は九の字に曲がりつつ、私の元へ這い進んでくる。と、思うや中指がそこに混ざり、カタカタとテーブルを走り始めた。それらの動きも私に、ある虫たちを連想させてきた。 「こ〜んなのが入っていたら、さすがに遠慮するし、交換を頼むわ」 「無論だ。そんな当たりは、お断りだがな」 瞑目し、心からの感想を漏らす。 羽虫やキャベツなどに付く幼虫、害虫と呼ばれるものが混在していれば食べずに、交換すら頼まず店を変える。そんなものが入ってくる店の、他の品とて食べる気にはならない。妻に食べさせることなど言語道断だ。私とて、それだけは遠慮願いたい。 「でしょ?でもこれくらいだったら、全然大丈夫だって思えない?」 のほほんと、まるで賛美歌を諳んじるかのような妻の声に、私はその顔を求めに瞼をあげた。すると混じり気のない、純粋な笑みが網膜に飛び込んできた。 「家の食堂で出た時も、いつだって私が食べてたもの。だから全然平気よ」 にこにことアンナが笑う。 輝く頬で。 澄んだ瞳で。 真摯な眼差しで。 満面の笑みを注がれ、そう、伝えられてきた私は――― 「―――そうか」 私はとうとう、頭を上下に揺らしたのだった。 アンナの気持ちは変わらない。 どんなに言葉を尽くしても、風に揺れる草花のように、ふわりと受け流されてしまう。本人の意思とは無関係なところで、するりと言葉をかわしてしまう。相手に嫌な気持ち一つさせずに身をかわしてくる。 一種の才能であると、私は思う。 (たとえ家の食堂で食べたものが、君の家族のものであったからだと言っても………無駄なのであろうな) どんなに言葉を尽くしても、最終的にはこう言って来るだろう。 勿体無い―――と。 それは、彼女の才能からだけではない。 シルヴァラントは貧困だ。そこで生まれ育ったアンナ。家が食堂であったのならなおさらだ。少し取り除けば食べられるものを捨てるなど、考えが及ばないのであろう。それこそ、虫などが混在してこない限り。 「わかった」 だから私は、彼女へこう言ったのだった。心の内で、考え始めていたことを。 「ならばそれは、私が食べよう」 アンナの体が後ろに下がった。目を丸め、そうして一気に破顔してくる。 「もう、クラトスったら!どうしてそうなるの?」 「君は身重だ」 クスクスと喉に笑みを絡める彼女に、気になっていた点を囁きかけた。 「お腹の赤子は今、無菌の世界で過ごしている。いかに君が大丈夫だといっても、かようなものが入っていたものだ。胎児にはよくないかもしれない」 彼女の顔から笑みが消えた。私の目を覗き込むように、身を乗り出してくる。 「そうなの?」 ヴァイオレットの瞳には不安が滲み出ていた。 「私、そういったことには疎くて…赤ちゃんには悪いの?そうなの?」 「おそらくは」 私は静かにこうべを振り、前言の説を己で否定した。素直に頭を下げる。 「―――すまない。長く生きてはいるが、私は自分の子を持つのは生まれて初めてなのだ。真実はよくわからぬ」 「頭をあげて、クラトス」 「アンナ…」 「私も同じよ。初めての赤ちゃんだから」 膨らみ始めたお腹に手を添え、アンナが言う。 「だから何も分からないわ。だけどこの子の為に、私は一生懸命勉強して行こうと思うの。子供を生んで育てるのは初めてだけど、母親だから………」 「私もだ」 彼女の頬へ手を伸ばす。その温もりを掌で抱き止め、かける言葉に胸の思いを注ぎ込んで、私は言った。 「私もこの子の父親だ。だから共に、学んで行こう」 「クラトス」 アンナの手が、私の手に重なってくる。頷いてくる。 「ええ」 「一緒に頑張ろう」 「うん」 嬉しそうに微笑む彼女を抱き締めたかったけれども、それは叶わない。ここは店内で人の目もある。頬へ伸ばしていた手も、仕方なく己の元へ引き戻す。無意識だったとはいえ、行き過ぎた行動だったかもしれない。誰も見てはいなかったであろうが、羞恥が胸に登りついてくる。だがそれも、アンナからくべられてくる、温もり満ちた眼差しの前に霧散していった。 「一緒に頑張りましょう。この子の為に」 「ああ」 頷き返す。 「アンナ、君の夫として」 眼差しを抱き留めたまま、唇を開く。 「この子の親として。家族の長として―――愛する君たちへ、私にも何かさせて欲しい」 「何かって?」 「アンナ」 きょとんと小首を傾げてくる彼女へ、そっと流した視線だけで語りかける。私が一瞥を送ったのは、彼女の前にあるパスタ。 「それを、こちらへ譲ってくれまいか?」 「クラトス…」 「君は今、母親として子供の為に頑張っている。私にも父親としての仕事をさせて欲しい」 子供のためだけではない。最愛のアンナに、不衛生な食べ物など食べさせたくはない。 「さあ、アンナ」 掌を差し出す。 「私のカレーが来る前に交換しよう」 私の目を、アンナがじっと見つめてくる。 「ありがとう、クラトス。あなたの気持ちはとってもよくわかるし、とっても嬉しい。気持ちは嬉しいわ。けど…」 「けど…なんなのだ?」 「でも大丈夫?これ―――」 不衛生なものを食べさせてしまうことを、ひどく申し訳ないと思っているのだろう。不安げな面持ちで、声音に翳りを潜ませてくるのへ、 「大丈夫だ」 大きく頷くことで、彼女の胸中で渦巻くすべてを引き受ける。 「私とて」 そして私は告げた。頬に微笑みさえ湛え、凪いだ春の海のごとく穏やかな声で。 「私とて、それしきで体調を乱すような身体と、食すのを断固拒否するほどの柔な精神は持ってはいない。大丈夫だ」 「クラトス…!」 アンナが嬉しそうに頬を輝かせた。が、それはすぐに困惑を纏った笑みへと姿を変えた。 小首を傾げた私へ、アンナが言う。 「勿論それもあるけど―――違うわ。これよ」 パスタの入った皿に両手を添え、私によく見えるように軽くもたげてくる。その瞬間私の頭は―――忘れていた事実を、彼女の声と共に聞くこととなったのだった。 「トマトたっぷりの、トマトの煮込みパスタよ?食べられる?」 「………善処しよう」 肺腑の奥から零れる吐息とともに、私は言葉を吐き出した。 赤い―――トマトソースがたっぷりどろりと絡み、その合間にイカと茄子を捕らえこんだ赤い、パスタという名の「赤い天敵」へ眼光を叩き付ける。頂上部には生のプチトマトまで盛り付けてある、妻にとっては可愛らしい、私にとっては恐ろしいという感想を抱かせたトマト尽くしの一品だ。 「大丈夫?クラトス」 「大丈夫だ」 答えた言葉は、自分に言い聞かせたわけではない。 私とてもう、過去のままの自分ではないのだ。 自信から出た言葉だった。 「私とて、胃がそれを拒否する過去のままの私ではない。君の料理で食べられるようになった。だから大丈夫だ」 自信に満ちた言葉に、アンナもようやく得心したのだろう。 「わかったわ」 安堵の笑みを咲かせつつ、パスタを私の手へと渡してくる。そして彼女ははにかんだ口調で、こう伝えてきたのだった。 「じゃあ、お願いします―――お父さん」 息を呑んだ。 皿は、取り落としはしなかったが危うかった。朱に染まった頬を両手で隠さんとする妻の姿に、目が釘付けになる。 「ふふ、ちょっと早かったかしら?」 「いや」 かぶりを振ったのは、無意識だった。 「そんなことはない」 意識が舞い戻ってくる。 釘付けのアンナのおもてから注がれてくる照れ笑いに、私は何か言わなくてはならないと思った。捧げる言葉をしかし、頭脳より探し出してくるより早く、口が勝手に開いて言の葉を紡ぎ出したのだった。 「ありがとう、嬉しかった。その………おか―――」 「お待たせしました。カレーです」 給仕の女性がカレーを運んできたのは、まさにそんな時だった。アンナのこうべはその声主の元へ誘われ、私の鼓動はなぜだか激しく波立った。それを気取られぬように表情を引き締め、数瞬おくれで妻に倣って給仕の女性を眺めやる。私達のオーダーを取った女性が、トレイを片手にそこに立っていた。 「え…?」 女性が頭を捻る。アンナを見、それから私の席へこうべを流し、トレイのカレーを見つめ、さらに首をかしげてくる。 ちらりと私の席へ目をくべつつ、 「あの…お客様がカレーで…よろしかったでしょうか?」 アンナへ問いかける仕種は疑問符だらけだった。 無意識状態で、その作業をこなしていたのだろう。気が付けばパスタの皿は私の前に置かれていた。それで給仕の者は混乱したのだろう。 どう言ってうまく、給仕の者を納得させるか? 私が黙考していると、 「ごめんなさい」 明るい妻の声が、私の考えの前を走り抜けていった。 「私が急に、カレーが食べたいって我侭言っちゃったの。だから、こっちに置いて下さい」 会心の一言だった。給仕の者は満面の笑顔で頷き、カレーを彼女の前へ配膳するや場を辞していった。 相手の不安を瞬時に和らげ、訝しむ心さえ抱かせずに場を収集させる―――その手腕。妻の鮮やかな手腕に感嘆の吐息をつく。 賛辞を己が双眸へ託し、彼女に惜しみなく贈りながら私は言った。 「さすがだな、アンナ」 きょとんと小首を傾げてくるアンナ。 「なにが?」 己が立てた功績を、誇ることさえしない。 「いや」 私はそっと、かぶりを振って発言を打ち消した。 そして心の内で、今一度、かぶりを振る。 (アンナ。君は) アンナをじっと見つめる。彼女もまた、白い頬に髪をかけて見つめ返してくる。 (君は―――己が功績を立てたことなど、夢にも思っていないのであろうな) 彼女はそういう女性だった。 その存在で、周りの者の心を優しく抱擁し、癒しの眠りにつかせてくれる。 己が手腕を知らず、誰の心にも平穏の風を運び込んでくる―――女性。 彼女と出逢えた者は皆、幸福だ。 今更ながらに思う。 (君に逢えて…よかった) 私をまっすぐに、見つめてくれることを。 私の言葉を、待っていてくれることを。 私の隣を一緒に、歩いてくれることを。 (私は―――今、君が私の傍らにいることを神に感謝しよう) アンナとともに今、このテーブルで向かい合っていられることが―――嬉しい。 胸の奥底から、幸福感が溢れだして来る。幸せを噛み締める。 「なあに?クラトス」 私の胸に幸せをもたらしてくれる人が、穏やかに微笑みかけてくる。 「とっても嬉しそうな顔をして。何かいいことがあったの?」 まさか「君に見惚れて幸せを噛み締めていた」などとは、口にするのはさすがに恥ずかしい。 「いや―――」 己の心に嘘をつき、私は否定の声をあげた。 「君の言うとおりだと思ってな」 そして先の給仕の者が起こした行動で、気づいたことを彼女へ告げることとした。 「あの給仕の者。これほどの客がいるのに、私たちが注文した内容をしかと記憶していた。実に見事な記憶力と、しかるべき、心の篭った対応を取ったと思ってな。感心していた」 アンナのおもてが、ぱっと輝いた。 「ね!そうでしょ!」 私の両手を掴み取り、満面に笑みを咲かせて息を弾ませてくる。 「あのウェイトレスさん。私たちがオーダーした内容、覚えていたでしょ?気配りの利いた、とっても素敵なお店だって証拠よ」 「そうだな。だから”当たり”の事も」 「ええ」 私の言葉の続きを、アンナが汲み取ってくる。 「気付いてくれるわ」 「ああ」 私は頷いた。 「そうだな」 妻の手の温もりに抱かれ、私は心からの言葉を捧げた。 「きっと気付いてくれるだろう」 「ええ」 アンナの目元が和らぐ。誘われて、私の目元も和らいだ。 私たちはしばらくの間、お互いの手を取り合い、目と目を見交わしていた。 それを先に打ち破ったのは、アンナであった。 「ね?」 「ん?」 「そろそろ食べない?お料理が冷めちゃうわ」 「そうだな」 大いに、同意の首を示す。そうして私と彼女の口がピタリと寄り添って、こう、言の葉を紡ぎ出したのであった。 「君の料理が冷めないうちに」 「あなたの料理が冷めないうちに」 綺麗に合奏した言葉のあと、私たちは間に無言を敷いて数瞬見つめあった。 が。 「ぷ!」 「ふ…」 失笑も、二人同時に頬へ上り詰めた。 お互いが、お互いの料理を気遣った―――その、思い遣りの行き違いの可笑しさに笑みが咲く。 アンナの手が、失笑を頬へ置いたまま食器置き場へと伸び、 「はい。クラトス」 フォークとスプーンを私に手渡してくる。受け取るのを見届けるや、彼女自身の手にもスプーンを持たせ、そうして微笑を咲かせて言ってくる。 失笑ではなく、いつも私の傍らで咲くあの―――心癒すような微笑で。 「さあ、頂きましょう」 「ああ」 微笑を唇に湛え―――私はパスタの海に、フォークの先端を投じたのであった。 「頂こう」 アンナ。 今の私があるのは、君のおかげだ。 そして今―――ここにある温もりもすべて。 ありがとうアンナ。 君といる幸せが、永遠に続くように。 君とこれから築いていく温もりが、永遠に冷めないように。 私はいかなる苦境をも乗り越え、どんな困難も切り捨てていこう。 アンナ。 すべては愛する、ただ一人の君に――― いかなる未来がこの先、待っていようとも。 私の心は、永遠に君だけのものだ。 Fin ○●Writing by 神冬たき●○ |
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