鏡花 By ヤマネコ |
もし花に例えるならば、牡丹の花。 百獣の王の尊称を獅子が冠するように、百花の王と讃えられるその花の大輪。 鮮やかに咲き誇り、雨に打たれても俯かぬ花。 しゃんと天に向かい、何を恐れることも恥じることもないと威風堂々たる艶姿で人目を惹き付ける花。 風間千景は、そんな男だと千鶴は思う。 寝所に設えられた豪奢な三面鏡の鏡台は、千鶴がこの隠れ里へとやって来た頃に風間が「妻に与える」と職人に作らせた物だ。 とろりと艶のある黒漆に金蒔絵の牡丹と螺鈿細工の蝶が実に見事で、一体どれだけ値が張るのかと背筋が冷えたのを覚えている。 子供の頃に寝物語に聞いたお伽噺の姫君の持ち物のようで、嬉しくない訳では決してないのだが、いざ自分が使うとなるとどうにも気後れしてしまうが。 だが、自分には過ぎる物だと恐縮した千鶴に、風間はいつもの高圧的で自信に満ちた笑みを浮かべるだけだった。 「何を言う。この俺の妻の鏡台が、粗末な物であっていいはずがなかろう」 どうやったらああまで強気でいられるのかいっそ羨ましいくらいだが、風間のその揺るぎなさが千鶴に安堵をもたらしてくれたのもまた事実で。 「……それでも、私より風間さんの方がずっと似合いそう」 覗き込んだ鏡の縁枠にまで、一切の手抜きなく描かれた牡丹の花。 夜闇とも見える漆黒に、それ自体が闇に光を放つような金色の花弁。 この花は、本当に風間のようだ。改めてそう思う。 職人が持てる技術の粋を凝らして作り上げたのだろうこの三面鏡に映るなら、お世辞にも妖艶とは言い難い自分の顔よりも、蒔絵の牡丹と同じ色の髪をしたあの男の整った面差しの方が映えるだろうに。 一寸先も見えないような濃い闇色の中に在っても、その存在の強さを失わない金色の花の姿は正に彼の在りように似ている。 ふとそんな事を考えてしまい、溜息を吐いた時だった。 「……ほう、俺の為に床入り前の身繕いか。なかなか殊勝な心掛けだな」 背後から、しかもごく至近距離から突然聞こえてきた低い声に仰天し、千鶴は慌てて声を上げる。 「かっ、風間さん!? 戻られたなら戻ったと声をかけてくださいって、いつも言ってるじゃありませんか……!」 湯殿から戻ったばかりなのだろう、普段より少し高い彼の体温とまだ湿った髪の感触が夜着越し直に感じられ、千鶴の意思に反し心臓が勝手に騒ぎ出す。 振り向く必要はなかった。 まるでそうするのが当たり前だというような我が物顔で千鶴を片腕に納めた風間のしたり顔が、彼から送られた三面鏡の中にはっきりと映り込んでいた。 「声なら掛けてやった。お前がぼんやりとしていただけの事ではないか。大方、俺のことでも考えていたのだろうがな」 にい、と口角を引き上げて笑うその顔。 整った顔をしている癖に、風間の唇から覗いた犬歯はやけに獣じみて見えて、千鶴の背筋がぞくりと疼く。 「ち……違います!! 貴方のことなんて、考えてません!」 実際には図星だったが、それを認めてしまうのは癪だった。 風間は、いつもそうだ。 こうやって当たり前の顔で千鶴に触れ、当たり前の顔で千鶴の心を掻き乱す。それは甘ったるい睦言などとは程遠く、千鶴が自分の所有物だと誰憚ることなく宣言するのにも等しい傲慢さに他ならない。 自分ばかりが溺れていると思い知らされるようで悔しさが募るが、僅かに口元を緩めただけの風間の顔は千鶴のなけなしの意地すら見抜いているようだった。 「見え透いた嘘を吐くな。お前がそんな顔をする意味が解らぬ俺だと思うのか」 ゆるりと細められた一対の赤が、そのまま真っ向から鏡の中の千鶴を見据えた。 捕らえた獲物を猫科の獣が弄ぶような残酷さと、否を許さぬ支配者の威圧との両方を備えた視線に身動きすら取れなくなる。 答えを促すようにすっと伸ばされた、風間の指先。 その指先が、やけに緩慢に千鶴の輪郭線を逆撫で顎から頬までを辿る。けれど……ゆっくり、ゆっくりと、見せ付けるように動く彼の指の感触が千鶴に伝わることはなかった。 「……っ…!」 それなのに、どうしてなのだろう。 胸の奥に焦げ付くような熱さがせり上がって、息を飲んだ。 滑らかに磨き抜かれた鏡の表面、千鶴と同じ顔をした鏡映しの虚像を指先でなぞる風間の香りがこんなにも近い。 この肌と髪の匂いを、知らない訳ではない。もう幾度も肌を重ね、蹂躙の限りを尽くされ、我を忘れ縋ることが出来る唯一のものはこの男の肩と背中だけなのだから。だからこそ逃れられないのだと思い至ることも出来ないまま、千鶴の胸は加速度的に鼓動を早めるしかなくなって行く。 「どうした?」 明らかに理由を知っていて問い掛けている、低い声。瞬く間に紅潮した千鶴の耳元へ唇を寄せ、鋭く尖った犬歯を宛がうような仕草まで鏡に映し出して見せておきながら、風間が千鶴に直に触れる事はなかった。 意地悪く問う声ごと吐息で耳朶を擽り、僅か潜めた響きで聴覚からじわじわと理性を侵す。鏡中の千鶴の輪郭を目元までなぞった指が再び蠢き、思わず息を詰めたせいで震えた喉元までを滑り落ちて爪を立てる。 微かに唇の隙間から見える風間の舌が、何かを確かめるように自らの唇を湿らせる程度に動くのを見た。その一部始終から目を逸らす事など出来なかった。 ああ、良く知っている癖だ。 足下が酷く不安定なものへと変わってしまったような錯覚の中で、そう思う。 これは、風間が千鶴を赦すつもりなど無い時の癖。泣いて縋り懇願して見せて、それでもまだ苛むつもりでいる時の彼が見せる癖だった。 「…っ……は…ッ…」 余裕なく上擦った呼気が、耳に届いた。 誰が上げた物だろうかと、次第に融解していく意識の端にぼんやりと思う。 鏡の中に、見知らぬ女が居た。 物欲しそうに瞳を潤ませ、襟元すら乱されてはいないというのに眦を朱に染めて息を荒げるこれは一体誰だろう。 じっとこちらを見ているようで、そうではない。「彼女」の瞳は、鏡の奥からこちらに手を伸べた金色の鬣の獣だけを求めていた。 良く見知った、見慣れた造作の知らない顔。 こんな顔で身を震わせる女など知らない。知らずにいたい。そう思って首を振ると、鏡の中からこちらを見返す「彼女」も頼りない仕草でゆるゆるとかぶりを振った。 「黙ったままで俺に全てを察し取って貰えると思うなら、それは怠慢だぞ……千鶴」 「……ぁ…、そん…な……っ…!」 千鶴、と。 日頃こうもはっきりと自分を名で呼ぶ事などしないくせに、今に限って耳元間近に吹き込んだ風間の意図が憎かった。 認められない。認めたくない。けれど、そんな事すら赦さないと名を呼んだ。 知らない女などではない。 これは、他ならぬ千鶴自身なのだと思い知らせる為に。 身体の芯にまで焼き付いた記憶は、千鶴の感情が追いつくよりずっと早く変化を呼び起こし新たな熱を息吹かせる。 今は虚像にしか与えられない接触が自分の肌の上に移ったとき、自分がどうなるかをとうに教えられてしまっていた。 こんなにも浅ましい顔を、今まで風間に晒してきたのだろうか。そう思うだけで、舌を噛み切ってしまいたい程の羞恥に襲われる。 それなのに、この腕から逃れられない。 酷い男だ。心の底からそう思う。 見たくはなかったものを眼前に突きつけられ、どれだけ千鶴が羞恥と罪悪感に震えようと風間を本心から責められはしないと承知でこんな事をしてくるのだから、本当に酷い。 降参を言葉で告げるだけの猶予は、もうなかった。 背中に感じていた体温に倒れ込むように身を委ねながら、振り向いて自ら唇を重ねる。 その最中、ふと視界に入った鏡を見て、千鶴は思った。 三面鏡の、合わせ鏡。 幾重にも果てなく重なった、自分と風間の虚像。 きっとこんな風に、どこまでも捕らわれていくのだ。 金色の牡丹に引き寄せられたのは、どこへも行けぬよう閉じ込められるためだったのかも知れない。 その底なしの蠱惑に、くらりと目眩がした。 【終】 --------------------------------------------------------------------- ヤマネコさんにネタで、彼着物(歳三羽織ver)描いてあげたらお返しに頂きました。 うひっ!ありがとうございましたーー!! 千鶴が一方的に恥ずかしくて、風間ドサドな感じの小説っとリクエストしたら、……こんなの届いちゃった…!! 下の名前で呼ぶのは公式の場位で、身内だけの時は「風間さん」と「お前」呼びだとすっっっっっっっごく萌える。 ので不意打ちの名前呼びはとってもドサドで美味しゅうございました。 そーいう男だよな!よく知ってます! 風間はずっと愛ある暴君としてずっと君臨して欲しいです。 |